僕は、野菜が好きですが、肉も食べます。
牛豚鳥羊はもちろん、美味しいジビエ(獣肉)を食べた時は、その芳醇な香りと奥深い味わいにしびれました。
… というわけで、先日、山梨は早川町に、鹿のハンティング&解体に行ってきました。
※この投稿は長文です。
食肉のかなりリアルな内容で、血や、動物の死が苦手な人は、見ていられない表現も含みますのでご了承ください。
が、現実です。※
歳は離れていますが、僕の尊敬する友達Hさんが、早川町でハンターをしています。
Hさんは、幼少の頃より山に入り、今まで数知れずのハンティングをされてきた凄腕ハンターです。
一緒に山に入ると、僕にはどこにいるか全くわからないのに「あそこにいるよ」と、遠くを指さし、次々に鹿を見つけます。
そして射程距離に鹿が現れると、すさまじい早さで猟銃を取り出し、すぐさま耳鳴りがするほどの銃声を響かせ、鹿が倒れた所まであっという間に駆け抜けていきます。
あまりの早さに僕があっけにとられていると
「ロープ取ってくるから持ってて」
と、撃った鹿の足を渡されました。
その時の銃声は二発。
一発目は子鹿で、二発目は母鹿。
子鹿は即死で、後ろ足に当たった母鹿の目の前で、生命活動を停止していました。
母鹿は僕から逃げようと、血走った目で僕を見ながら、力なく、必死にもがきます。
僕は、鹿の鳴き声を初めて聞きました。
そこへ、Hさんが戻ってきて、血抜きを始めました。
鹿が絶命した時点で血流が止まってしまうので、血抜きは半死の状態で行うのがベストだそうです。
血抜きは首を切りますが、気管を傷つけてしまうと窒息死してしまうので、頸動脈のみを切り、生きた状態で木に吊し、重力による血抜きをしました。
その後、解体場に持ち帰り、解体。
後ろ足のアキレス腱に穴をあけ、そこに金具をひっかけて持ち上げ、解体しやすいようにします。
まだ生温かい鹿の、肉と皮の間にナイフをいれ、丁寧にはいだ後、腹を開きます。
この時期の雌鹿は妊娠期で、お腹から内臓と共に、下半身が吹き飛んだ未熟児が出てきました。
妊娠期の鹿は太っていて、人気があるそうです。
おそらく
「この時期の鹿は美味しいんだよなー!」
と言っている人の中で、同時にお腹から絶命した未熟児が出てくる事を知っている人は少ないと思います。
そのまま、食べられない内臓と皮と頭は捨てて、前足、後ろ足、ロース、ヒレのみに分解。
ここまでくれば、いつもの肉です。
大きな鹿から取れる肉の量は、本当に、少しでした。
しかも、弾の当たりどころが悪いと、内出血で血が滲み、大部分が商品にならなくなります。
しかし、日本ではまだ鹿肉の需要が少なく、高価格では販売できません。
こんなに手間と苦労がかかってこの価格なのか、、、という値段です。
鹿だけでなく、猪、熊も狩っていると、愛護団体からの苦情も受けるそうです。
愛護団体は、その動物の為に、餌の固まりを山に置いたりもします。
しかし、その餌は特定の動物だけでなく、様々な生物を引き寄せ、生態系のバランス破壊を引き起こします。
苦情を言ってくるのはいつだって、そこに住んでいない人達です。
天敵の狼がいなくなり、鹿は増え続けています。
増えすぎて餌が足りなくなれば、人里に下りてきて、そこに野菜が育っていれば当然、食い荒らします。
町から人々がどんどん出ていき、寒さも厳しい山中。
そんな中で、苦労して育てた野菜が一晩で食い荒らされた農家さんの悲しみは、想像するにたえません。
「鹿を殺すなんて、しかも妊娠してるのに、かわいそう」
と言われるでしょうか。
妊娠さえ許されず、限られた空間で、ただ食される日の為に生きる牛、豚、鳥、魚は、かわいそうではないでしょうか。
そこで生きる人々、動物の命を絶つ人は。。。
育んだのが人であれ、自然であれ、目の前にある肉は必ず、誰かが育てて、誰かが殺しています。
以前イタリアで
「イタダキマスってどういう意味なんだい?」
と聞かれた時、少し考えて
「全てへの感謝だよ」
と答えました。
しかし、動かなくなった鹿を見て僕は「ごめんな。」と言っていました。
その夜その鹿を食べる時、ありがとうと、ごめんよという気持ちが沸き上がり、自然と手を合わせて「いただきます。」という言葉が出ていました。
いただきますには、食材への感謝だけでなく、申し訳ないという気持ちもあるのだと。
そして、それらの気持ちは育んでくれた人達、食べられる肉になるまで手をかけてくれた人達への気持ちでもあるのだと、知りました。
食材の現実を知れば知る程、「いただきます」に意味が伴われてきました。
無駄にするなんて、出来ませんね。
今日も、全ての食材に手を合わせて、いただきます。