MY STORY
片道切符から、
始まった。
そこで見た食卓が、今の仕事の全部の始まりです。

00 / BEGINNING
机の傷を、数えていた。
中学時代は人前が苦手で、教室では机の傷を数えているような子どもでした。高校で思い切って人の輪に入ってみたら、世界がこんなに楽しいのかと驚いた。大学でダンスに出会い、毎日朝から晩まで練習して、在学中にダンススタジオからキッズレッスンの依頼が。子どもたちにレッスンをする役をもらえたのは、うまさより「楽しく教えてくれそうだから」でした。食べることは、その頃からずっと好きでした。

01 / DANCE TO FOOD
「今日からお前も、家族だ。」
大学卒業と同時にavex所属のプロダンサーになり、舞台や振り付け、インストラクターの仕事をしていました。25歳で半月板を痛め、踊るどころか歩くことも難しくなり、仕事も収入もなくなりました。「手術をしても元には戻らない」と言われた一方で、「切らずに、歩いて冷やせば治る」と言う人がいた。どうせ歩くなら景色のいい所を、と片道切符と友人の知人の電話番号だけを持ってイタリアへ。一か月、ただ歩きました。
泊めてもらった家では「誰かの友達なら、今日からお前も家族だ」と迎えられ、若者が「今日はロンバルディアの料理だからロンバルディアのワインだ」と当たり前に食を語る。ひとりで食べることを良しとしない人たち。私の場合は、歩くことと現地の食事で膝が戻り、帰国して三か月でダンサーに復帰しましたが、心に残ったのはイタリアの食卓のほうでした。
料理研究家のアシスタントとして基礎を学び、2009年、ELLE a table のフードバトルに出場。ダンス仲間の応援票に押されて優勝してしまい、「このままでは化けの皮が剥がれる」と、今度は料理を学ぶためにイタリアへ渡りました。料理学校のあと、岩山の上のホテル、ミシュラン星付きの「il Pellicano」へ。朝7時から深夜2時まで働き、最初は倉庫で野菜の仕分けばかり。休みの日にカフェで本気で踊ったら「今日からお前は家族だ」と言われ、翌日から全部のレシピを教えてもらえました。




02 / THE FIELD
96円のズッキーニ。
帰国後、口に入るものそのものが気になり始めました。食べてはいけないものを探すより、食べていいものを自分でつくろう。鎌ヶ谷の自然農法の畑に飛び込み、野菜と、千葉の在来種の綿を育てて糸を紡ぐ暮らしが始まりました。初めて育てたズッキーニが直売所で120円で売れ、手数料を引いて手元に残った96円が、泣けるほど嬉しかった。
同じ頃、夜遅い時間に開催したダンスレッスンで、生徒たちに「夕ごはんを持っておいで」と伝えると、多くの子がスナック菓子を持ってきました。一部のお客さまに高い料理を出すシェフより、レシピと知識で家庭の食卓を広く変える「料理家」になろう。そう決めたのはこの時です。
畑は今も一皿の土台で、2013年ごろからの3年間は、アメリカ大使館の大使夫人の菜園を任されていました。


03 / FOOD & WELFARE
正座して、待っていてくれた。
畑の近くに、機織りをする福祉施設「空と海」ができました。糸紡ぎを教わりに飛び込んだのが縁で、「いつかレストランをやりたい」という夢を聞きます。利用者さんの多くは、レストランに行ったことがありませんでした。それなら私がつくります、と森にカセットコンロを持ち込み、月に一度の「森のイタリアン」を始めました。
料理を待ちきれず正座で待つ人。運ばれた皿を、写真も撮らずに、温かいうちに食べ尽くして、おかわりに並ぶ人。同じ頃、私は東京・青山で「IKU青山」の立ち上げをプロデューサー兼シェフとして手がけていて、そこでは皿が出るとまず、一眼レフが構えられました。記録や発信をしてくれるのは有り難いけれど、料理人として、どちらに向けてつくる自分が幸せか。私にとっての答えは、明らかでした。
2017年に、福祉レストラン「らんどね 空と海」を立ち上げ、2020年末までシェフを務めました。
たくさんの福祉レストランを見て回って気になったのは、健常者のスタッフが走り回り、利用者さんが座っているだけ、という光景。主役は彼らのはずです。全員が椅子に座って待ち、順番に料理を運んで戻る「バッターボックススタイル」を考えました。「彼らでもできる」仕事ではなく、「彼らだからできる」仕事を。梨農園の古木を割って薪にし、石臼で小麦を挽き、カカオ豆を一粒ずつ剥いてチョコレートをつくる。効率を度外視した手仕事が、この店にしかない味になりました。現場で積んだ経験を土台に、介護福祉士の資格も取りました。



04 / CRAFT
割れた器は、直せばいい。
らんどねでは、作家さんの陶器やガラスの器を使いました。運ぶ人に、誇らしく思ってほしかったからです。
ただ、器は毎日のように割れる。捨てるのではなく「直せる」と分かれば、割ってしまった人の気持ちも軽くなるはず。そう思って金継ぎを学び始めましたが、本金継ぎは時間も費用もかかります。もっと早く、簡単に、誰でもできる方法を探して、合成うるしと真鍮粉を使う「かんたん金継ぎ」にたどり着きました。
直した跡を「景色」と呼ぶと知ってから、器を見る目が変わりました。
2022年からは日本金継ぎ協会のアンバサダーとして、講座で伝えています。真鍮の作品づくりも、この延長です。

05 / NOW
共生の前に、共存を。
2021年に千葉から仙台へ移り、4人の息子と暮らしています。畑で育て、料理をつくり、福祉と手仕事の現場へ出かける毎日です。共同で立ち上げたNPO法人BALLOONでは副理事長として、就労継続支援A型・B型の事業所運営に関わっています。
私は生まれつき左耳が聞こえません。子どもの頃はからかわれたり、先生の言葉が聞き取れず悔しい思いもしました。今では、これは両親からもらった贈りもので、自分の大切な一部だと思えています。だから、障害のある人が「特別扱いされる存在」ではなく、当たり前に活躍できる場所をつくりたい。
福祉の場を、私は野球にたとえて考えています。制服をビシッとまとって勤務できる、盛岡の人気ブランド・ヘラルボニー「ISAI PARK」(2025年3月からカフェを総監修)はメジャーリーグ。就職を夢見てもう一歩技術を身につける、千葉の就労移行支援カフェ「cafe symbiose」(2024年、料理担当として立ち上げに参加)はプロ野球。そして、心身に不自由があっても、それぞれの個性や能力を生かして働く就労継続支援のBALLOONは草野球。目指す場所も歩幅も違っていい。2025年12月には宮城県庁「レストランぴぁ」のノウフクランチフェアのメニューを監修しました。
いきなり「共に生きよう」と言うと、お互いにハードルが高すぎる。まずは同じ場所にいることを認め合う「共存」から。手を貸さなくてもいい、けれど、舌打ちをして悪意を向けるのだけはやめよう。そこから始めれば、理解の輪はちゃんと広がります。
温かいうちに、食べてくれる人のために。 これからも料理をつくります。
カフェの立ち上げ、メニュー開発、記念日のケータリング。形は違っても、やっていることは同じです。



06 / TIMELINE
年表
- —
- 大学卒業後、avex所属のプロダンサーに。25歳で膝を痛める
- —
- イタリアの料理学校と、ミシュラン星付き「il Pellicano」で修行
- 2009
- ELLE a table「料理業界人フードバトル」優勝
- —
- 千葉で畑を借り、「菜園料理家」として活動開始
- 2013ごろ
- アメリカ大使館の菜園管理人(3年)
- 2014
- 『野菜のチップス 果実のチップス』(文化出版局)
- 2015
- 『野菜のスープ』(主婦と生活社)/青山「IKU青山」オープン(プロデュース&シェフ)
- 2016
- 福祉施設「空と海」で月1回の森のランチ会を始める
- 2017
- 福祉レストラン「らんどね 空と海」開店・シェフ(〜2020年末)
- 2020
- The Vegetarian Chance Japan ファイナリスト・サスティナブル賞
- 2021
- 仙台へ移住。NPO法人BALLOONを共同で立ち上げ、副理事長に
- 2022
- 日本金継ぎ協会アンバサダーに
- —
- 環境省「森里川海」アンバサダー
- 2024
- 千葉「cafe symbiose」立ち上げ(料理担当)
- 2025
- 盛岡 ヘラルボニー「ISAI PARK」カフェ総監修(3月〜)/宮城県庁「レストランぴぁ」ノウフクランチフェア監修(12月)
- 2026
- 仙台で家づくり。畑と食卓の間で
FOOD & WELFARE
あの食卓から、
今の仕事へ。
らんどね 空と海から、BALLOON、カフェの監修、農福連携へ。福祉との関わりを、現場の写真とともにご紹介しています。
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