こんにちは、菜園料理家の藤田承紀です。
東京にいた頃、「mii(ミー)」という料理の勉強会をやっていました。2018年から2020年にかけて、料理家、シェフ、農家、カメラマン、スタイリスト、卸の人、パン屋、コーヒー屋。食に携わっていれば誰でも来ていい会です。材料費は割り勘。先生も生徒もなく、持ち寄って、作って、食べて、しゃべる。それだけの会でした。
その記録を読み返していたら、いまでも僕の料理を変えたままの回が出てきました。牛を一頭分さばいた日のことです。

その日、二つの実験をした
テーマは牛でした。前の回で鶏のラグーを作ったら思いのほかおいしくて、それなら牛はどうなるのか、という流れです。肉は、生産者の新保さんが届けてくださった鹿児島県産の経産牛。一頭分を、みんなでさばき切って使うことにしました。


切り出したブロックを、その場でミンサーに通しました。ひき肉から作るラグーです。せっかくなので、二通りで火を入れてみることにしました。
ひとつは、セオリーどおり。ひき肉を鍋で炒めて、焼き色をつけてから煮ます。もうひとつは、炒めない。鍋にひき肉を入れて、ひたひたより少し多いくらいの水を注ぎ、煮るようにして火を入れる。それだけです。乳化には、肉を焼いたときに出た脂を使いました。

骨も残っていたので、同じことをしました。さばき終えた牛骨を、はなこさんがオーブンで焼いてから煮出したものと、焼かずにそのまま煮出したものの二通りで。洋食では、骨は野菜と一緒に高温でしっかり焼き色をつけてから煮出す。そう教わってきましたし、僕もずっとそうしてきました。

結果は、どちらも「やらないほう」だった
食べ比べて、全員が同じことを言いました。
圧倒的に、炒めていないほうのラグーがおいしい。

焼き色をつけたほうも、悪くはないのです。ただ、こう言った人がいました。「焼き色をつけたほうは、新保さんのお肉じゃなくてもいいかもしれない」。つまり、香ばしさが前に出て、肉そのものの味が後ろに下がってしまう。炒めていないほうは、肉が優しくて、いくらでも食べられそうな味でした。
スープも同じでした。焼いていない骨のほうが、断然おいしい。

これには参りました。骨は焼くべきだと思っていたのは何だったのか、とみんなで笑いました。
セオリーは「たいてい正しい」だけ
もちろん、焼き色をつける意味はあります。香ばしさが欲しいとき、肉の個性より料理の輪郭を立てたいとき、素材が少し弱いとき。焼き色は、足りないものを補う技術なんだと思います。
逆に言えば、素材が十分に強いときは、補う必要がない。その日の肉は、新保さんが手をかけて育てた経産牛でした。補わなくても、そのままで立っていた。だから余計なことをしないほうがおいしかった。

セオリーは「多くの場合に正しい」のであって、「いつでも正しい」わけではありません。頭では分かっていても、実際に並べて食べ比べないと、体では分からないものです。
ついでに分かったこと
その日はもう一つ、面白い発見がありました。同じ一頭でも、肩寄りと尻寄りではまったく違うということです。食べやすさで言えば、断然お尻のほう。肩寄りは脂が強いので、炭火で焼いて脂を落としてやると化けそうだ、という話になりました。

一頭を丸ごと扱うと、こういうことが分かります。部位ごとに買っていたら、たぶん一生気づかない。
昆布も、羅臼、羅臼の耳、真昆布、利尻と並べて出汁を引き比べました。この話は長くなるので、また別の回に書きます。
確かめる、ということ
この会をやっていた数年で、僕がいちばん得たものは知識ではなくて、「確かめてみよう」と思う癖でした。
教わったことを疑うのではありません。教わったことを、自分の素材で、自分の舌で、もう一度通してみる。同じ結果になることのほうが多いけれど、たまにこうしてひっくり返る。そのひっくり返った一回が、自分の料理になっていくのだと思います。
いまも畑で野菜を育てながら、同じことをしています。育て方を変えてみる、火の入れ方を変えてみる、並べて食べてみる。あの会でやっていたことの続きです。
会場を貸してくださったSHIORIさん、贅沢な昆布を持ってきてくださったはなこさん、農家の楽しみも苦労も話してくれた秋庭覚さん、パンを焼いてくれた宮下さん、そして肉を届けてくださった新保さん。ありがとうございました。後日、新保さんから「藤田くん用に仕上げたので、焼きやすくなってたと思います」と言っていただきました。しびれました。
